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東京高等裁判所 昭和56年(う)625号 判決

主文

本件控訴を棄却する。

理由

本件控訴の趣意は、検察官藤岡晋作成名義の控訴趣意書に記載されているとおりであるから、これを引用する。

所論は、要するに、原判決は、被告人が本件犯行の犯人であることは優に認定できるとしながら、原審で取り調べた溝口、保崎、中田三鑑定のうち、被告人は病的酩酊状態にはなかったとする溝口鑑定を排斥し、独自の見解に基づいて病的酩酊すなわち心神喪失の状態にあった可能性は否定し難いとして被告人に無罪の判決を言い渡したが、病的酩酊の判断は、現在における公定のアルコール精神疾患診断基準である「アルコール精神疾患の診断基準」(昭和五四年三月三一日アルコール中毒診断会議)によるべきであり、これによれば、本件は、いわゆる深酒の結果高度の単純酩酊ないしは複雑酩酊の状態に陥って敢行された犯行と見るのが相当であり、また、いわゆる行為の外部的諸事情のみによって病的酩酊の可能性を判断し得るとする原判決の立場をとったとしても、原判決がその判断に当って前提とした被告人の行動についての認定とその評価には誤りがあり、被告人は犯行時複雑酩酊の状態すなわち心神耗弱の状況下において姦淫ひいては殺人の行為を行なったものと認めるのが相当であり、被告人の責任能力を完全に否定した原判決には重大な事実の誤認があり、破棄を免れない、というのである。

そこで、所論にしたがって順次検討する。

一  証人河野裕明、同保崎秀夫、同中田修、同新井尚賢の当審各供述によれば、所論指摘の「アルコール精神疾患の診断基準」は、厚生省公衆衛生局精神衛生課が、アルコール関連の精神疾患につきWHOの学問的な進歩に対応した診断基準を確立し、行政上の対応に資するため、アルコール中毒診断会議に委嘱し、昭和五四年三月三一日報告された一応の診断基準(当審保崎証言によれば「教育用の診断基準」)で、その四つの基準がそろっていれば病的酩酊といえるというものに過ぎず、病的酩酊の学問的判定が、以後右の基準によらなければならないというような意味での公定の診断基準ではないことが認められる。

なお、所論は、右「アルコール精神疾患の診断基準」のうち、「飲酒中ないし飲酒直後に著明な行動上の変化が出現すること」及び「飲酒量は必ずしも大量でなく、純アルコールに換算して約一〇〇グラムを超えないこと」の二基準を強調し、本件においては最後の飲酒時から約二時間経過後の犯行であること及び被告人が犯行前に飲酒した量は純アルコールに換算して約一三七グラムになることから、いずれも右基準に合致しないとするが、前記各供述によれば、「飲酒直後」といっても一応のもので、数時間後でも差支えないし、「一〇〇グラムを超えないこと」という基準は最も議論のあったところであって、飲酒量が必ずしも大量ではないことの一応の目やすを示したものに過ぎず、一〇〇グラムを超えていても差支えはなく、例えば一五〇グラムなら不可というような厳格なものではないと認められる。従って、このような理解に立つかぎりは、仮りに右「アルコール精神疾患の診断基準」によったとしても、病的酩酊の可能性は否定し難いとの判断に達し得ないわけのものではないのである。

二  所論は、原審が、精神医学の立場から判定されるべき病的酩酊について、極めて独断的な立場をとり、原審において取り調べた三鑑定のいずれかに従って判断を下すことなく、独自の見解に基づいて病的酩酊の可能性ありと判断したと非難する。

しかし、病的酩酊の判断基準として原判決の説くところは、中田鑑定人の鑑定及び証言、保崎鑑定人の鑑定及び証言を適切に理解してなされており、独断的な独自の見解であるとの非難は当らないし、裁判所は、鑑定の前提事実等に問題があると考える場合鑑定の結果をそのまま採用しなければならないものでもない。

三  原審取調べの関係証拠によれば、原判決が病的酩酊の可能性を認める前提として認定した被告人の行動とその評価について判示するところは、おおむね相当として是認することができ、当審における事実取調べの結果によっても特段変更を加えるべき点は見出せない。

所論は、病的酩酊の可能性を認める前提として原判決の認定した行動とその評価につき、以下の(一)ないし(五)の原判示の点につき認定と評価に誤りがあると主張するので順次当裁判所の判断を示すこととする。

(一)  「被告人が被害者に対し熾烈な暴行を加え、かつ、極めて手荒く姦淫に及んだ上、扼頸により窒息死に至らしめた行為は、狂暴な興奮状態と激しい運動性の発散、運動麻痺がなかったことを裏づける」とする点について

当時六七才の被害者が、顔面を殴打され、頸部を手で強くしめつけられる(甲状軟骨左上角骨折、眼瞼結膜に中等度の針頭大の溢血点散在)などの暴行を加えられて強姦され、その結果、扼頸に基づく頸部圧迫により窒息死させられ、強姦の際、陰部に相当多量の出血を伴う膣口裂創等の傷害を加えられたと推認される以上、これを原判決のように認定・評価することは不当ではないのであって、所論のように、右のような行為は姦淫の際に通常伴う行為であるとか、被告人が射精しなかった点をとらえて、これが当時被告人に運動麻痺のあったことを端的に示すものであるとかいうことはできない。

(二)  「老女を性欲の対象とし、犯行後逃走せず、その場に寝込んでしまったことなどは、周囲の状況に対する著しい見当識障害を示す」とする点について

被告人は、原認定のように、自宅とは正反対の人的にも物的にも何の関係もない被害者方に深夜入り込んで、六七才の老女を激しい暴行を加えて強姦して死亡させ、しかもその場に寝込んでしまったのであって、これらのことから、被告人には周囲の状況に対する著しい見当識障害があったと見て差支えないとした原審の判断に誤りはない。

所論は、原判決は、被告人において被害者が老女であることを認識して姦淫したことを前提として犯行時の被告人の見当識障害の有無を判断していると非難するが、原判決は、「被告人のごとき若者が通常ならば性的興味を全く抱かないであろう六七才の老女を性欲の対象とした」と判示するのみで、老女であると知って姦淫した旨判示しているものではなく、原判決のいわんとするところは、むしろ、被告人は、見当識障害のために老女を老女と認識しないで姦淫したものとの趣旨であると解されないではない。

(三)  「右の一連の行為は了解不可能である」とする点について

右のような被告人の一連の行為は、所論のように、通常の酔払いの習性として考えられないことではないと見る余地はないわけではないが、しかし、中田鑑定書も「実に奇妙な犯行である」としているもので、これを、原判決のように、周囲の状況から了解不可能であると解せられると判断することも、必ずしも不合理なものと断ずるわけにはいかない。

(四)  「犯行後現場に眠り込み家人に発見されてはじめて目がさめたことは興奮状態の後の深い睡眠状態の存在を物語る」とする点について

所論は、これをいわゆる終末睡眠ではなく、ただの深酒のうえでの疲労の余りの睡眠と認めるのが相当であるという。勿論酔余深い睡眠状態があったからといって終末睡眠であるとは限らないことは所論のいう通りであるが、原審鑑定人保崎秀夫は、原審で、「被告人が犯行場所に寝ていたのは異常酩酊だと理解しやすいが、終末睡眠だけでは病的酩酊の特徴とはいえない。いくつかの特徴を合せて判断していかなければならない。」旨、更に当審では、病的酩酊の可能性を否定できない根拠として、「寝込んでしまったことと、……記憶が欠損している部分があること」を供述しており、また中田鑑定書は、飲酒実験により終末睡眠の生じたことを記載していることに鑑みれば、本件の睡眠がいわゆる終末睡眠である可能性は否定できないものであって、この点の判示部分がやや断定的に過ぎることは否み難いが、さりとて、所論のいう「ただの深酒のうえでの疲労の余りの睡眠」であるとの証拠のない本件では、明らかな評価の誤りがあるとは言えないものである。

(五)  「犯行に関し著しい記憶の欠損がある」とする点について

本件犯行に関する被告人の記憶の有無及び程度は、最も重要な点であり、かつ、問題の存するところである。

被告人の捜査官に対する供述調書中には、所論指摘のような本件犯行の大筋を記憶しているかに見える供述部分があることは確かである。しかしながら、被告人の全供述過程とその各内容を対比検討すると、右供述部分は、被告人が真に記憶していることをそのまま供述したものと認めることは困難であり、被告人の記憶としては、当夜焼津市内の飲食店「しぐれ」もしくは「萩」で飲酒したことと、その後どこかの家に入り、そこにいた女の人と肉体関係を結んだことの二点に過ぎず、被告人には、本件犯行に関し著しい記憶の欠損があると見て妨げないとして原判決の詳細判示するところは相当とするほかなく、所論のように、本件犯行時の状況についての被告人の記憶はほぼ完全に近いものであったとは到底認められないのであり、保崎鑑定が前提とする記憶欠損の程度につき、「その前提を修正するならば、保崎鑑定はより病的酩酊を認める方向に傾斜するであろうと考えられる。」との原判断は、合理性を欠くものではない。

なお、所論中には、原判決が、中田鑑定において飲酒実験により病的酩酊状態が発現したから被告人には何らかの病的素因があるとする点を論難して排斥した点を非難する部分がある。原判決は、「被告人には病的酩酊の原因となる何らかの病的素因か存在すると結論づける中田鑑定・同証言は、右の部分においては、にわかに採用することはできない」と判示しており、その理由として述べるところは一つの推測として成り立たないものではなく、また、当の中田鑑定人自身が当審証言において、原判決のように判断されてもやむを得ないと思うとして原判決の批判を甘受する態度を示しているところであるが、しかし、原審及び当審での中田供述によれば、同鑑定人は変り方の非常な急激さの点に着目して右の部分の指摘をしているものと解せられるのであって、中田鑑定人の見解もにわかに斥け難いものがある。

四  所論中には、原判決が、溝口鑑定を排斥したものと非難する点がある。

確かに、溝口鑑定書の鑑定主文4には、「犯行当時における酒酔程度は血中アルコール濃度は単純酩酊のホロ酔程度に相当するが、意識溷濁は著しく、したがって是非善悪の弁識能力も著しく減退していたものと推定される。」という部分があり、原判決は、これを、結局病的酩酊の可能性を否定している趣旨と理解したうえ、「溝口鑑定は、病的酩酊かどうかを判断するにあたり、行為の外部的諸事情よりも原因の存否という点を余りに重視し過ぎる見解であって、これにはにわかに賛同することができない。」としている。

しかしながら、同じ鑑定主文2には、「犯行当時は意識溷濁を主徴とする病的酩酊の状態にあったものと推察はできるが、被疑者には病的酩酊の素因を認めず、過去に病的酩酊を発したことがないため、病的酩酊であるとの断定はできない。」とあり、また、「診断及び考察」の項には、これに対応する「当時の被疑者は、意識溷濁を主徴とする病的酩酊状態か、または単純酩酊へ何等かの意識溷濁を生じる原因が加わった状態にあったものと推察する。」との説明があり、同人の証言によれば、「本人が意識溷濁が強いということだけで」、病的酩酊とも、高度の単純酩酊とも、「どっちともはっきり判定できない」というのである。それが、溝口鑑定人の真意であると考えられるが、原判決が「本件犯行に関する被告人の信用すべき供述内容の要旨」として認定判示するところに基づけば、強い意識溷濁があったことは否み難く、この前提に立てば、同鑑定が病的酩酊の可能性を全く否定するものと考えることには多大の疑問がある。

このように考えると、原判決の病的酩酊の可能性は否定し難いとする判断は、結局のところ、必ずしも溝口鑑定の真意とも矛盾するものとはいえないと解せられるのである。

五  当審における鑑定人新井尚賢の鑑定書の主文は、被告人は、「本件犯行当時、異常酩酊(複雑酩酊)に継続し、ほぼ病的酩酊に近い状態が短期間に存在したものと考える。」というのであり、「精神医学的説明と考察」の項では、「複雑酩酊が比較的長く続き、最後に短時間病的酩酊とみなされる状態があったと考える。」と説明されている。これをどう理解すべきか必ずしも容易ではないが、同鑑定人の当審証言によって補えば、本件は非常に難かしいケースであって、犯行時病的酩酊であったと断定することは困難であるが、複雑酩酊下にあった被告人が、被害者の悲鳴と多少の抵抗が強い情緒的刺激となって激しい興奮状態をひき起し、病的酩酊に移行し本件を犯した疑いが強く、本件犯行に限れば、犯行の初めから終りまで病的酩酊とみなされる状態が続いたと推定するとの趣旨であると解される。同鑑定は、記憶の欠損等につき原判決の前述した判示部分とほぼ同様の前提に立つものであり、病的酩酊の判断基準やその考察の過程においても別段疑問とすべき点はなく、その結論において、病的酩酊の可能性は否定し難いとする原判決の判断を更に補強するものとなった。

六  以上の次第であって、本件においては、犯行及び犯行前後の状況について不明の点が相当にあり、被告人の酩酊状態も典型的な病像とはいえず、明快な鑑定も得られないため、所論のような疑問が提起されるのももっともな面がないではないが、少くとも、病的酩酊の可能性は否定し難いというかぎりにおいて、その判断には動かし難いものがあるというべきであり、結局のところ、原判決に所論のような事実誤認はない。

論旨は理由がない。

よって、刑訴法三九六条により本件控訴を棄却することとし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 時國康夫 裁判官 下村幸雄 中野久利)

〈以下省略〉

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